​🌸『カレンブーケドールは、あの日見た雲に恋をする』🌸 第38話

​🌸『カレンブーケドールは、あの日見た雲に恋をする』🌸

​🌸 第38話:『番外編:スタッフさんの奮闘記 ―黄金の蹄跡を支えた、名もなき手のひらの記憶―』 🌸

​美浦トレーニングセンターの夜明けは、残酷なほどに早く、そして冷たい。

午前3時。静まり返った厩舎に、自分の吐く息だけが白く浮かぶ。

俺は使い古したモップを手に、今はもう主のいない「あの馬房」の前に立ち止まった。

そこにはつい数年前まで、黄金の毛並みを朝日に輝かせ、こちらの顔を見るなり「ブフフッ!」と、鼓膜が震えるほどの鼻息――彼女流の「親愛の挨拶」を浴びせてくる、世界一騒がしくて、世界一愛おしいお嬢様がいた。

​「……カレン。お前、今頃北海道で王子様(コントレイル)の隣を離れず、ベタベタ甘えてるんだろうな。」

(――BGMが、どこか懐かしく、穏やかなアコースティックギターの音色へ。静寂の中に響く作業の音に混じるような、優しく温かい旋律――) 🧹🧤🐎

​俺が彼女の担当になったのは、彼女がまだ、その大きな瞳に幼さを残していた頃だった。

最初は、少し骨格のしっかりした、大人しいだけの牝馬だと思っていたんだ。

だが、それはとんでもない見当違いだった。

彼女は入厩して間もなく、自分の馬房の壁に、どこから持ってきたのかコントレイルの切り抜き写真を「神棚」のように貼り付け、毎晩のように栗東(西)の方角を向いて、月に向かって切なそうに嘶いていた。

最初は「変わった癖のある馬だな」と笑っていたが、次第に俺たちは、彼女の異質さに気づかされることになった。

​あいつのあの、牝馬離れした「482kgの筋剛体(バルク)」は、単なる血統やトレーニングの産物じゃなかった。

カレンは、「大好きなあの方に、ふさわしい自分でありたい」という、純粋すぎて狂気すら孕んだ想いだけで、自らの肉体を内側から造り変えていたんだ。

​「スタッフさん! 見てください、今日の私の大胸筋のキレ! これで王子様をエスコートできますわ!」

……言葉は分からなくても、彼女のドヤ顔を見れば何を言いたいのか筒抜けだった。

真夏の猛暑の中、俺たちが「もういい、倒れるぞ」と止めるのも聞かず、砂浜で重いタイヤを引きちぎらんばかりの勢いで突進していたあの背中。

オークス、秋華賞、ジャパンカップ……。

「善戦姫」「シルバーコレクター」……そんな心ない揶揄がファンの間で囁かれるたび、彼女は厩舎の隅で、静かに悔しさを飲み込むように奥歯を噛み締めていた。

そして翌朝には、誰よりも、どんな牡馬よりも早く、暗闇の中の坂路にその姿があった。

​俺たちは、特別なことは何もできない。

ただ、彼女の激しい気性をなだめ、擦り切れた蹄鉄を打ち直し、泥と汗にまみれた黄金の皮膚を、指の感覚がなくなるまでブラシで磨き上げるだけだ。

けれど、彼女がレースから帰ってくるたび、そのパンパンに張った筋肉や、激闘の熱を帯びた脚に触れるたび、俺の手のひらには彼女の「折れない魂」が、痛いほどダイレクトに伝わってきた。

​「……あいつ、引退式の日に変装して中山に潜り込んだ時は、本当に肝を冷やしたぞ。……清掃員のつなぎを広背筋でぶち破ったあの音、今でも夢に見るんだからな。」

​そんな独り言をこぼしながらも、俺の視界は少しずつ滲んでいく。

あんなに一途に、あんなに真っ直ぐに、誰かを愛して、その愛のために自分を極限まで磨き続けた生き様を、俺は後にも先にも他に知らない。

彼女は結局、G1という最高の勲章をその頭上に戴くことはできなかった。

けれど、彼女が引退するあの日、馬運車へと乗り込む直前。

最後に俺の肩に、そっと押し当てられた彼女の鼻先。

それは、これまでのどんな激闘の時よりも温かく、まるで「5年間、ありがとうございました」と、静かに告げているようだった。

(――BGMに、遠くのターフから聞こえてくるファンファーレの残響と、新しい命の躍動を感じさせる力強い低音が重なっていく――) 🎺✨🏔️

​今、北海道から送られてくる写真の中には、王子様の隣で、現役時代には一度も見せなかったような、穏やかで慈愛に満ちた表情の彼女がいる。

そして、その足元を元気に駆け回る、一頭の仔馬。

写真越しでも分かる。その仔馬の背中には、母親譲りの、見事な、あまりにも見事な「黄金の広背筋」のラインが刻まれていた。

俺たちが泥にまみれて守り続けたあの「黄金のバトン」は、ちゃんと、最高の形で次の世代へ繋がったんだな。

​「……よし。しんみりするのは終わりだ。仕事、仕事。」

​俺はモップを強く握り直し、新しい馬を迎え入れるために馬房の扉を開ける。

ふと見上げた冬の終わりの空には、あの日、お嬢様と一緒に見上げたのと全く同じ、真っ白で、どこまでも真っ直ぐな飛行機雲が一本、描かれていた。

​カレンブーケドール。

お前と過ごした、あの騒がしくて、重苦しくて、けれど何よりも美しかった5年間は、俺の人生という名のレースにおける、最高で唯一の「1着」の思い出だよ。

幸せになれよ、俺たちの自慢のお嬢様。

​『馬房(へや)に咲く 黄金の花は 風に乗り 愛の重さを 遺して去りぬ(完)』

(カレンブーケドール物語・全編完結)

コメント

タイトルとURLをコピーしました