🐎 第34話:抹消、2024年3月27日 —仮面を脱いだ、女王の微笑み— 🕊️✨
2024年3月27日。水曜日。
中京の泥濘と、10万人の嗚咽のような歓声からわずか3日。
JRAの競走馬登録簿から、「メイケイエール」という名前が静かに、けれど決定的に抹消されました。
それは、彼女が「稀代の暴君」「美しき劇薬」と呼ばれた戦士であることをやめ、一頭の穏やかな「馬」へと還るための、聖なる儀式でした。
栗東トレーニングセンター、午前10時。
春を呼ぶ柔らかな風が、厩舎の屋根を撫でていきます。
お嬢様を故郷・北海道へと運ぶ大型の馬運車が、重厚な排気音を響かせながら、住み慣れた馬房の前へと横付けされました。
いつもなら、知らない車が近づいただけで『無礼者! 近寄るんじゃありませんわ!』と前脚を天高く突き上げ、周囲の度肝を抜くはずのお嬢様。
けれど、この日の彼女は、驚くほど静かに、澄み切った朝の空気を胸いっぱいに吸い込んでいました。
武英智調教師は、馬房から一歩踏み出したお嬢様の顔を、両手で包み込むようにして、何度も、何度も愛おしそうに撫でました。
「……エール。お前との毎日は、本当に、一秒だって退屈しなかったよ。……心から、ありがとうな。」
その声は、春の冷気の中で微かに震えていました。
お嬢様の世話を、文字通り命懸けで、片時も離れず続けてきた厩務員さんも、真っ赤になった鼻をすすりながら、彼女のトレードマークである**「白いシャドーロール」**を、最後にもう一度だけ、丁寧に、指先で整えました。
何度も泥を被り、何度も洗い直され、彼女の「制御不能なプライド」を象徴し続けた、その真っ白な布。
お嬢様は、タラップをゆっくりとした足取りで一段ずつ登り、輸送車の中へと消えていきました。
重い扉が閉まり、エンジンが一段と高く咆哮を上げ、車がゆっくりと動き出したその瞬間。
後方の小窓から、お嬢様がひょいと、悪戯っぽく顔を覗かせたのです。
スタッフたちの息が止まりました。
そこにいたのは、かつて「狂気」と恐れられ、何万人を翻弄し、物理法則さえ壊したあの鋭い眼光の主ではありませんでした。
真っ白なシャドーロール越しに見えたその瞳は、まるで春の陽だまりをそのまま映したかのように穏やかで、優しく、すべてを分かっているかのような……慈愛に満ちた、透き通るような輝き。
『……武様。そして、私を支えてくださった皆様。……少しだけ、騒がしすぎましたかしら? でも、皆様が私を最後まで「女王」として扱ってくださったこと、決して忘れませんわ。……さようなら、愛しき戦場。次は、もっと平和な、緑あふれる場所でお会いしましょう。』💅💎✨
車が角を曲がり、その鹿毛の尾が見えなくなるまで、武調教師たちは言葉を失ったまま、ちぎれるほどに手を振り続けました。
「……あんなに、あんなに綺麗な目をしていたんだな。あの子は。」
誰かがポツリと溢した言葉が、春の栗東の空気に、優しく溶けていきました。
お嬢様を乗せた車は、慣れ親しんだトレセンの門を抜け、彼女を待つ北の大地、安平町へと走り去っていきました。
背後に残されたのは、彼女が駆け抜けた4年間の、あまりにも鮮烈で、あまりにも愛おしく、そしてあまりにも切ない「嵐」の残像だけ。
メイケイエールという「劇薬」が去った後の栗東は、少しだけ、いや、耐え難いほどに静かで、寂しさに満ちていました。🐾🚐💨



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