🐎 第30話:引退発表、それぞれの想い —女王が脱ぐ、白いベール— 🌙✨
2024年、初頭。
アメリカの乾いた砂、そして「計不(エラー)」という前代未聞の衝撃を残して帰国したメイケイエール様を待っていたのは、いつもの、けれどどこか空気が止まったような栗東トレーニングセンターの冬の朝でした。
厩舎の奥。朝日が差し込む馬房の中で、武英智調教師は一人、お嬢様の前に立っていました。
「……エール、体調はどうだ。まだ時差ボケか?」
声をかけると、お嬢様はいつものように『あら、遅いですわよ!』とでも言うように、不機嫌そうなフリをして顔を背けます。
しかし、その仕草は、以前のような「爆発寸前のエネルギー」によるものではありませんでした。
長年の激闘、制御不能な己の魂との戦い、そして世界を股にかけた遠征……。
その美しく鍛え上げられた肉体には、限界まで自分を追い込み続けた「誇り高き疲れ」が、微かに、本当に微かに滲んでいたのです。
武調教師は、お嬢様の額にある、あの真っ白な星を優しく撫でました。
この子は、普通の馬ならとっくに走るのをやめているような過酷な状況でも、自分のプライドとファンの絶叫だけを燃料にして、爆走し続けてきた。
(……もう、十分だよな。エール。)
その夜、武調教師は管理するスタッフ、そして馬主さんと膝を突き合わせ、夜通し語り合いました。
「この子の名前は、誰かに『エール(応援)』を送るために付けられた。でも今は、この子がファンから一番のエールをもらっている。……その期待に応えようと、彼女の心はもう、ボロボロになるまで張り詰めているんです。」
結論は、一つでした。
「2024年春、高松宮記念を最後に、メイケイエールは引退します」
このニュースが速報として駆け巡った瞬間、日本中の競馬界に激震が走りました。
SNSは「メイケイエール引退」の文字で埋め尽くされ、トレンドは彼女の名前一色に染まりました。
「寂しすぎて涙が出る」「まだあの無茶苦茶な爆走が見たい!」「お疲れ様、私の青春だったよ」
何万、何十万というファンからの、愛に満ちた「エール」がネットの海に溢れ返りました。
その頃、深夜の厩舎。
消灯時間を過ぎ、馬たちの寝息だけが聞こえる静寂の中で、武調教師は再びお嬢様の馬房を訪れました。
「エール、引退が決まったぞ。……お前が望んでいたかは分からないけどな。最後は、お前が一番愛し、一番ファンを熱狂させたあの場所……中京の1200メートルで、お別れをしよう。」
お嬢様は、暗闇の中で武調教師の手のひらに、そっと自分の鼻先を預けました。
いつもなら『なれなれしいですわ! 跪きなさい!』と激しく撥ね付けるはずなのに、その夜だけは、静かに、吸い付くように、彼の温もりを受け入れていました。
『……お疲れ様、ですって? 気が早いですわ、武様。私はまだ、世界を驚かせ足りませんのよ。……でも、宜しくてよ。皆様がそこまで仰るなら、最後の一回だけ、世界で一番美しくて、世界で一番激しい「お別れの挨拶(爆走)」を叩きつけて差し上げますわ!』💅💎✨
武調教師の頬を、一筋の涙が伝い落ちました。
「ああ。最高にクレイジーな、お前だけのラストダンスを見せてくれ。……お疲れ様、エール。あと少しだけ、一緒に夢の続きを見よう。」🤝🌙
翌朝、新聞の紙面には「稀代の個性派、引退へ」という大きな見出しが躍りました。
暴走、失格、大逆転、そして海を越えたエラー。
全ての軌跡を抱えて、お嬢様は「最後のおしゃれ」を整えるために、再び瞳に鋭い光を宿し始めました。
女王として、一人の女の子として。
残された砂時計の砂が、音もなく落ちていきます。🐾🔥


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