🌸💫 『いつか届くと信じて走った──ナムラクレア』 💫🌸 最終話

🌸 『いつか届くと信じて走った──ナムラクレア』 🌸

🌸🍃 最終話 ありがとう、わたしの春(余韻)


🌅🌬️ ① 静かな朝
引退の日。
風が優しい。

その朝は、
不思議なくらい静かだった。

厩舎の中に差し込む光は柔らかく、
まだ少し冷たさの残る空気を、
そっと温めていた。

「……きょうで、
 ほんとうに、おわりなんだ……」

そう思っても、
胸の奥は不思議とざわつかなかった。

寂しさも、
名残惜しさも、
たしかにどこかにあるはずなのに。

それよりも先に、
静かな“落ち着き”が、
心の中に広がっていた。

馬房の外から、
やさしい風が吹き込んでくる。

その風は、
まるで長い旅の終わりに、
「おかえり」と囁いてくれているようだった。


🌫️🐾 ② 走らない朝の違和感
蹄鉄の音がしない朝。
でも、心は穏やか。

いつもの朝なら、
蹄鉄がコンクリートを叩く音が、
厩舎のあちこちから響いてくる。

調教へ向かう馬たちの気配。
人の足音。
短い指示の声。

でも、
今日は少し違った。

クレアの蹄は、
どこへも向かわない。

「……はしりに、いかないあさって、
 こんなかんじなんだ……」

体は、
まだ“走る準備”を覚えている。

外へ出れば、
自然と前へ歩き出しそうになる。

けれど、
今日はその必要がない。

違和感はあった。
でも、
それは決して苦しいものではなかった。

「……もう、
 はしらなくても、いいんだね……」

そう思ったとき、
胸の奥に、
ふわりとした穏やかさが広がっていった。


🍃📖 ③ たくさんの風を思い出す
小倉の風。
函館の風。
中山の風。
そして、春の風。

静かな朝の中で、
クレアは、
これまで出会ってきた“風”を思い出していた。

小倉の風。
まだ幼かった頃、
初めて遠くの競馬場で感じた、
少し湿った、でもどこか明るい風。

函館の風。
夏なのに冷たくて、
胸の奥まで刺さるような、
鋭い潮の匂いを含んだ風。

中山の風。
GⅠのスタンドから吹き降ろす、
熱と緊張と、
期待が混ざり合った重たい風。

そして──
春の風。

高松宮記念のパドックで、
本馬場で、
ゲート裏で。

何度も、
何度も、
その風を感じてきた。

「……たくさんの、かぜと、
 いっしょにはしってきたんだな……」

思い出す風のひとつひとつが、
クレアの中で、
静かな光景となってよみがえっていく。

それは、
どれもこれも、
かけがえのない“春”の一部だった。


🌤️💎 ④ 勝てなかった日々も宝物
勝てなかった。
でも、走った日々は宝物。

GⅠのタイトルは、
最後までクレアのものにはならなかった。

あと少し。
ほんのわずか。
何度も、何度も、
その“少し”に届かないまま、
ゴール板を通り過ぎてきた。

「……かてなかった、ひのほうが、
 きっと、おおかったよね……」

でも、
不思議と後悔はなかった。

勝てなかった日々にも、
ちゃんと風が吹いていた。

悔しさで胸が焼けるような日も、
涙が出ないほど心が乾いた日も。

それでも、
ゲートが開けば、
クレアはいつも前へ走り出していた。

「……あのひびも、
 いまは、たからものだって、
 おもえる……」

勝てなかったからこそ、
見えた景色があった。

届かなかったからこそ、
胸に残った言葉があった。

その全部を抱きしめて、
クレアは、
静かに目を閉じた。


🤲🌬️ ⑤ 「ありがとう」
浜中俊の声。
スタッフの声。
風の声。

その日、
クレアの周りには、
いつもより少し多くの人がいた。

「クレア、おつかれさま」
「よう頑張ったな」
「ほんまに、ありがとうな」

浜中俊の声。
調教師の声。
厩務員の声。
スタッフたちの、
ひとつひとつ違う「ありがとう」が、
クレアの耳に届く。

言葉の意味を、
全部正確に理解しているわけじゃない。

それでも、
その響きの中に込められた想いは、
はっきりと伝わってきた。

「……こちらこそ、
 ありがとう……」

心の中で、
そっとそう呟いたとき。

ふいに、
やさしい風が吹いた。

それはまるで、
風までもが、
「ありがとう」と言ってくれているようだった。


🌸🕊️ ⑥ わたしの春は終わらない
走れなくても、
風はいつもそばにいる。

もう、
ゲートに入ることはない。

もう、
スタートの合図を待つこともない。

もう、
1200mを全力で駆け抜けることもない。

でも──
クレアの周りには、
変わらず風が吹いていた。

「……はしれなくても、
 かぜは、ここにいるんだね……」

耳をくすぐる風。
たてがみを揺らす風。
頬を撫でる風。

それは、
これまで一緒に走ってきた、
あの風と同じ匂いがした。

小倉の風も。
函館の風も。
中山の風も。
高松宮記念の春の風も。

全部が、
今ここに吹いている風と、
どこかでつながっている気がした。

「……わたしの、はるは……
 おわらないんだ……」

走ることは終わっても、
春は、
風の中で、
ずっと続いていく。


🍃📘 ⑦ 物語は風の中へ
ナムラクレアの物語は、
静かに、風の中へ溶けていく。

夕方。
少し赤みを帯びた光が、
厩舎の屋根を染めていた。

クレアは、
静かに立ち尽くしながら、
遠くを見つめる。

そこには、
もうゴール板も、
スタンドも、
ゲートもない。

あるのは、
ただ、
広がる空と、
流れていく風だけ。

「……ながいあいだ、
 たくさん、はしったね……」

ナムラクレアという一頭の馬の物語は、
今日でひとつの区切りを迎える。

でも、
その物語は、
ここで消えてしまうわけじゃない。

レースを見てくれた人たちの心の中で。
一緒に走った馬たちの記憶の中で。
そして、
クレア自身の胸の中で。

その物語は、
これからも、
静かに息をし続ける。

やがて、
一陣の風が吹いた。

クレアのたてがみを揺らし、
頬を撫で、
どこか遠くへと流れていく風。

ナムラクレアの物語は、
その風の中へ、
そっと溶けていった。

「……ありがとう。
 わたしの、はる──」

その言葉もまた、
風に乗って、
静かに空へと昇っていった。

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